ロアは何故志貴に移れたのか

 志貴が四季と共融していたから、という事は今更述べるまでもないと思う。問題なのは、何故命が繋がった事によってそれが可能となったのか、という事である。
 ロアの転生に関する考察でも述べたように、私は転生体達がロアの生まれ変わりである事は先天的に決まっている事だと考えている。だから後天的に命が繋がるだけで転生可能となるという点が疑問なのである。

 ひとつ考えられるとしたら志貴の方もまたロアの転生体だったという事であるが、本編を読む限りそうととれる描写はどうも見当たらない。
 歌月十夜の赤い鬼神にて、幼少時の志貴が普通の子供とは少し違っていたととれる描写も存在する。しかし「赤い鬼神」という話においてロアは無関係であるし、後半部分での「いかなる存在であれば紅摩に対抗できるのか」という話に関連して、前述の描写はロアの転生体というよりはむしろ、生まれながらにして壊れており、"死"を究極した存在へと至れるだけの潜在能力……要するに、直死の魔眼を得る才能を有する、という事に関する伏線だったと考えた方がしっくりくる。

 もしも志貴に転生していたのならばどれほどの能力の持ち主となっていただろうと、アルクェイドルート終盤の夜の校舎でロアが言っている。だがこれももしもの話であって、実際志貴が転生体だったとする裏付けにはならないだろう。
 その後、ロアの点を突いた後も、志貴と「繋がっているから」そちらへ移れば存在の繋がりは途絶えない、というような事を言っている。
 シエルルートの夜の校舎のシーンでもシエル先輩が、ロアと繋がった結果として志貴はロアにとっての「避難先」となり、「次の転生先に行く必要が無くなった」というような事を言っている。
 これらの言葉を曲解する事無くそのまま受けとめれば、志貴は元々ロアとはなんの繋がりもない存在だったと考えた方が良いだろう。

 となるとロアが志貴に移る事が出来た理由としては、四季の共融能力の特徴によると考えた方が良いのかもしれない。

 本編中はよく「繋がった」という表現が用いられていたが、四季の共融能力は槙久の手記において「奪う」能力であるかのような書かれ方をされている。
 だが志貴を見る限り命を完全に奪われたわけではなく、秋葉からの補助があるとは言え自身の生命力の一部を使う事は可能であったようだ。
 よって直接命を奪うというものではないと思われる。どちらかというと、ひとつの命を奪い合っている、という表現の方が正しいだろう。
 ならば四季の「共融」とは他者の魂に干渉し、その者が所有する何か、本編の場合は「命」だが、これの所有権を改竄し、自分の名をそこに書き加えるというものではないだろうか。
 その後は意思力の強い方がこれを独占使用する事も可能であり、結果的に相手から「奪う」事ができるというものではないだろうか。

 四季の共融がそういう能力であるとすれば、志貴の魂は一部ロアである四季によって都合良く書きかえられているという事になる。つまり、これによって志貴は後天的にロアの転生体と重なった存在にさせられた、という事になるのではないだろうか。
 もしそうだとすれば、ロアが志貴に移れたとしてもおかしくはないだろう。


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