アルクェイドルートで四季(ロア)はその眼の力を利用して彼女に止めをさしている。が、この時もしも彼の眼が本当に直死の魔眼であったならばどうだっただろう。
ネロ襲撃前の段階ですら志貴にはアルクェイドの線をホトンド視る事が出来ていなかった。その上この時よりも力が回復してロアと激しい戦闘を行えるまでになり、しかも満月の夜故に不死性が最も高まっていたアルクェイドからでは、もしかしたら彼女が戦闘で消耗した後であろうと線を視る事は出来なかったのではないだろうか。
この時四季は彼女が弱っているから死(と、彼は思いこんでいる)が視えたのだと勘違いしていたか、或いは自分の方が志貴よりも生命として優れているから彼より視えやすいのだと考えていたのかもしれない。
ここで志貴と四季の眼の違いを改めて比較してみる。直死の魔眼はモノの死を視る。対して四季の眼はモノを活かしている部分を視る。
ならば、直死をもってアルクェイドの死線を視るのが困難だったのに比べ、四季の眼をもって「アルクェイドを活かしている個所」を視る事は容易だったのではないだろうか。つまり、「非常に死に難いという事」はそういう存在から死を視る事を困難にさせるが、だからといってこれが「活かしている個所」を視る事を困難にさせるような事は全くないのではないかと言う事である。
よって四季は直死の魔眼ではなく、むしろその逆の性質を持つ眼の持ち主であったからこそアルクェイドに大きなダメージを与える事が出来たのではないかと思われる。
そう考えると直死の魔眼は生物相手の戦闘に用いるのであれば、むしろ四季の眼よりもやや劣っているとも考えられるかもしれない。四季の眼ならば夜のアルクェイドを一撃で無力化できる可能性はあるかもしれないが、直死ではそれは到底不可能だからである。逆に死にやすいモノからは視えにくいのかもしれないが、そうだったとしてもこれは欠点たり得ないだろう。
必ずしも殺す対象=生物とは限らない。直死の魔眼は殺す事を究極した者の眼であり、生物相手の戦闘という分野において最も優れた眼ではないという事なのかもしれない。
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