超能力というものは人間単体が用いる力であるからその威力の程は自然干渉に及ばない。にも関わらず藤乃の能力はその例から逸脱しているかのように見える。
はじめ、その理由は藤乃がたまたま例外的存在だっただけであり、彼女は通常の超能力者を遥かに超えるキャパシティを誇っていたからか、或いは彼女の能力が非常に燃費の良い能力だったからであるかのどちらかなのではないかと考えていた。
しかし現在ではまた考えが変わっている。具体的には世界に存在する巨大な概念を具現化させているのではないか、というものである。
先の燃費が良い能力、という考え方に少し近いが、こちらにしても結局のところ能力者自身の力のみで対象物を歪曲させている事になるのでその点において異なっている。
どちらかというと世界干渉や自然干渉に近いと言えるかもしれない。
では、その具現化している巨大な概念とは何か。私は太極図における相克する螺旋ではないかと考えている。
主人公たる両儀式と巫条霧絵・浅上藤乃の三者は、本編にて荒耶も述べている通り同じ起源から分かれた同胞とも言える間柄である。そして三者ともに人間を超える人間を作る事を目的とした旧い家の出身である。
その三者のうち、両儀式はひとつの肉体にふたつの心を持った太極図の具現とも言える人間、巫条霧絵はひとつの心にふたつの肉体を持った、両儀式とはまた別のカタチでの太極図の具現とも言える人間であった。
ならば、浅上藤乃も太極図となんらかの関わりを持った存在であった可能性もあり得るのではないだろうか、と考えたのがきっかけである。
相克する螺旋とは、これは私が調べた結果の解釈なので間違っているかもしれないが、簡単に説明するなら万象の属性の移り変わりをあらわした螺旋運動の事だろう。
太極から生じた両儀からさらに分化した四象。これは陽中の陰・陽中の陽・陰中の陽・陰中の陰の四つからなる。万物・万象はこれら四つの属性に当てはめる事ができ、先に挙げた順番で順次発生していく。
この、螺旋を描きながら陰陽が循環していく様子を表した物が太極図である。
空の境界の終盤において「両儀式」の式の能力に関して言及した部分があるが、その内容は藤乃の眼もまた世界の縮図を視る事ができるものであるとも解釈する事が可能であるかもしれない。もしもそうだとしたら、藤乃が視ていたものは概念としてしか有り得ない、世界の万象の移り変わりをあらわす螺旋の方向性だったというふうに考える事もできると思う。
直死の魔眼によって死という概念を視る両儀式や遠野志貴がそれに接触する事によって死を発現させる事を可能とするように、浅上藤乃はこの螺旋の方向性を視て、なんらかの手段によって物理的な螺旋運動というカタチで発現させていたのかもしれない。
それゆえ力の強さ自体では自然干渉に及ばない超能力でありながらあれだけ強力な効果を発揮したのではないだろうか。世界に存在するあらゆるモノはすべからくこの螺旋の影響を受けている。物理的なエネルギーを発生させて力尽くで曲げるのと違い、この螺旋を具現化したのであればどんなに頑丈な物だろうと曲げられるのも道理だろう。
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